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2011年4月13日 (水)

「第37回 背振山茶談議」のお知らせ

「第37回  背振山茶談議」

日時   平成23年4月23日(土) 午後2時~
場所   修学院  佐賀県神埼郡吉野ヶ里町坂本
テーマ  村岡 実  佐賀県茶業の歩み(2)幕末から明治期の嬉野茶業
参加費  諸経費として300円  

 国内での喫茶は、僧院(特に禅宗)での修行茶から茶の湯と闘茶が都で広まり、江戸時代17世紀以後には宇治以外でも茶栽培が広まります。これは、「慶安の御触書」などの倹約令にも関わらず、徐々に飲茶が庶民にも定着し、茶が商品作物として発達してきたことに関連します。宮崎安貞の「農業全書」(1696年刊)は、百姓に土地があれば茶を植え商品化することを勧めています。
 しかし、茶が商品として本格的に栽培され始められるのは、幕末の1859年の開港で茶が生糸に次いで主要輸出品として台頭してからです。鎖国体制下でオランダや中国との唯一の窓口であった長崎出島は、佐賀鍋島藩には長崎警護の負担と海外の事情を知り得る地の利の両面がありました。諸国が日本に開国を迫る背景には日本からの茶の持ち出し(輸入)もその一つでした。
 第13回及び第28回背振山茶談議でも取り上げましたが、この時期の1857年、大浦慶は嬉野を始め、九州各地から約1万斤(6トン)の茶を集め、イギリス人オールトとの茶貿易を行いました。また、佐賀藩は藩財政の立て直しのために天保年間から殖産興国に着手し、文久元年(1861)からは藩内の茶を佐賀藩専売とし、茶の主産地に藩営製茶場(嬉野3、諫早1)を設置して、元治元年には諫早領からだけでも約63トンが軍艦と引き替えにグラーバーと取引されています。
 しかし、1859年の横浜開港により、また神戸やがて清水の開港により、長崎からの茶輸出は徐々に衰退していきます。また開港と共に茶は輸出産業として活況を呈しますが、最大の輸入国であるアメリカでのトラブルなどにより、海外市場を目指した国内各地の茶業は紆余曲折を余儀なくされます。
 嬉野でも輸出向けとして「蒸し伸び煎茶」や紅茶製法が導入されますが、定着しません。嬉野では、依然として「釜炒茶」に固執し、国内外の市場からは遊離することになります。嬉野茶業は吉村新兵衛とその一族の偉業でこれまで支えられてきましたが、この時期には井手輿四太郎、高柳嘉一の組織的活動、嬉野尋常高等小学校で製茶専習科の設置など、組織としての茶業振興が始まります。
 今回は、幕末から明治における嬉野茶業が直面した課題とその対応について述べます。

 当日は修学院の境内の色とりどりの草花、新緑の木々が出迎えてくれるでしょう。お待ちしています。

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